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Đề Thi Tiếng Nhật

JLPT Test N1 in 07/2025

問題8 次の文章を読んで、 後の問いに対する答えとして、 最もよいものを 1・2・3・4 から一つ 選びなさい。
(1)
社会というのは抽象的な概念だ。 だから、社会を見せてみろといわれても、見せることはできない。テ レビでニュース映像を見ていても社会を見たことにはならない。 では、 社会はどうしたら目に見えるか。 それが街である。 街の中で人と人がどう具体的に関係し合っているかを見せるしか、 社会は見せよう がない。 人と人の具体的な関係こそが社会だからだ。 物をつくる人がいて、運ぶ人がいて、売る人がいて、買う人がいる。 そうした人々の無数の行為の連関 (注) として社会は存在する。 街は、 その諸行為の連関を具体的に見せてくれる場なのだ。

(注) 連関 ここでは、つながり
45. 社会について、筆者はどのように考えているか。
(2)
病気は、しばしば「鵺」 にたとえられます。 「鶴」 は、 頭は猿、胴は狸、尾は蛇、 手足は虎という奇怪な物の怪 (注) で、 からだの一部だけを見てもその本態を捉えることはできません。 実は「病気」もこ の「鵺」によく似ていて、 私たちに多彩な症状を見せますが、 その症状を生み出している、病気の「本体」 を捉えることは容易ではありません。 私たち医師は、病気というさまざまな「鵺」を、症状を手がかりにして引きずり出さなければならないのです。
(注) 物の怪: ここでは、想像上の生き物
46. 筆者によると、診断のときに医師はどうするべきか。
(3)
特許とは、ある企業が開発した新製品を、 別な企業がまねして生産して利益をあげることを一定期間防止する制度である。新製品の開発には通常多額の資金が必要なので、 新製品を一定期間独占的に販売して開発資金の回収を認める仕組みになっている。 こうした制度がなければ、 企業はリスクの ある新製品開発に躊躇してしまい、 社会の発展が阻害されてしまう。 特許には、 企業同士の公正な開発競争を促す目的があるのだ。
47. 筆者によると、 特許制度による企業の利点は何か。
(4)
知を愛し求める人は、自らの無知に人一倍、敏感であるがゆえに、ふだんは意識しない日々の営みの細部にまで 十分な意識を払います。 そこで自分があたりまえに受け入れていたことを見つけ出し、それは本当にあたりまえなのかと疑おうとするのです。

このような仕方で「問い」を発し、あたりまえの根拠を吟味する経験を積み重ねると、一見すると透明に見える日常世界にもじつはさまざまな問題が隠れている、と感知できるようになります。
48. 筆者の考えに合うのはどれか。
問題9 次の文章を読んで、 後の問いに対する答えとして、 最もよいものを 1・2・3・4 から一つ 選びなさい。
(1)
以下は、スポーツの分野におけるリーダーについて書かれた文章である。

リーダーと呼ばれる立場にある者は、専門性をつねに高めていく努力を怠ってはならないのだが、以前なら、専門書を読むとか、より高い知識を持つ人に訊ねるとか、あるいは海外の最先端の情報を翻訳するなどすれば、ある程度は事足りた (注1) ように思う。 いわゆる「受け売り」であっても、それなりにカバーできた(注2)のだ。

しかし、これだけ情報化が進むと、 その程度の「知識」 は、 得ようとすれば誰もが得ることができる。誰もが知り得ていることを話しても意味はない。 相手の行動を変えるきっかけにはなり得ない。 つまり、もはや「受け売り」 の専門性は通用しないということだ。 誰もが知り得る知識を、より深めたものでなけ れば「専門性」にはならないのである。

そうした専門性を身につけるためには、自分自身がほかの人間が知り得ないことを見聞したとか、あるいは実際にそうした領域に足を踏み入れたとかして、 獲得したものでなければ、 共感は呼びにくくなるのではなかろうか。そういう専門性が、 これからは求められるのではないかと私は思うのだ。(中略)

つまり、専門性にはなんらかの裏付けが必要になる、 リアリティを感じさせることが重要になるということである。

言葉を変えれば、 「知っている」 だけでは専門性にはならないということだ。 「わかって」 いなければならないということである。 「知った」 ことを、 それまでの経験なども付け加えながら自分のなかで自分の言葉として置き換え、 「わかる」 に変換させなければ、専門性を高めたことにはならないのだ。

(注1)事足りる: 間に合う
(注2) カバーする: ここでは、必要を満たす
49. 「受け売り」 の専門性について、筆者はどのように述べているか。
50. 筆者によると、リーダーに求められることは何か。
(2)
人はなにも考えないということはできません。 考えていないようでも、いろんな記憶や印象や思いや感情がゴチャマゼになって(注1)、 決して筋道立ってなどいないてしょうが、なにかを考えてはいるのです。
(中略)

それを誰かに伝えなければいけないときは、 私たちは、それを本の夏や原稿用紙のマス目に沿って絞り出すように、なんとかきれいに整えて 「出力」 していきます。 そうでなければ、ほかの誰かは、あなたの考えを知ることも読むこともできないからです。

そうすることで、頭のなかが整理されたり、 自分で思ってもいなかったような発想が浮かんでくることもあるでしょう。 それこそが、 書くことの恵みです。 だから、ときどき私たちは、そうして出力されたものが、最初から頭のなかにあったかのように勘違いをしてしまいます。 でも、当然のことながら、頭のなかが 最初からそうなっていたわけではありません。 逆に、書いたり読んだり反芻 (注2) したりすることで、 渾然 一体として(注3)いた思いや感情や印象や考えの矛盾の 「かたまり」のような豊かさが選別され、角を落とされ、成形されてしまうことも当然あります。 これはある意味、 とても惜しいことです

なぜなら、そういう腑分け (注4)されていない 「かたまり」 のような状態も、立派な「思考」だからです。そして、創造的な飛躍やひらめき、天から降ってきたようなアイデアというのは、こうした 「かたまり」の思考がふつふつと化学反応のようなことを起こして、自分でもわからないまま、 その 「すきま」からひょいと飛び出してきたものなのです。

(注1) ゴチャマゼになる: 混さり合うや
(注2) 反芻する: 操り返し考える
(注3) 渾然一体としている: さまざまなものが混さり合って一体となっている
(注4) 腑分: 分析する けする
(注5) ふつふつと:ここでは、次々と
51. 筆者によると、 書くことの利点は何か。
52. とても惜しいことですとあるが、なぜか。
(3)
打ち合わせは参加するすべての人で議論をし、ひとつの結論を導き出していく作業である。 その裏を返せば、意見が採用されていない人のほうが大勢いるのである。 こうした場合、 その場では納得しているものの、周囲からの扱われ方次第ではストレスが溜まっていくことになるであろう。

「それならば、 私はいなくてもいいじゃないですか」

当然ながら、この先この人からはポジティブな(注1)発言は得られないであろう。

メイン・アイデアを考えた人がすべての権限を握り始めたときは、特に注意が必要だ。 最初に考えた人がその案件に責任を持つことは当然であるが、それと同時にチームのモチベーションへ(注2)の責任も持つことになると心得いかがだろうか。そのために、本筋でないことは譲るクセをつけてみては なければならない。

では何が本筋で、 何が本筋でないのか。それを客観的に計る基準は 「正しいか、正しくないか」「好きか嫌いか」 に判断することができる。 本筋は「正しいか、 正しくないか」 で判断され、本筋でないものは「好きか嫌いか」 で判断される。 つまり、好きか嫌いかという好みに関しては、個人的な一存(注3)で切り捨てるのではなく、さまざまな意見を積極的に受け入れるべきであると考える。 そのことでチームのひとりひとりが自分の存在意義を感じ、 前向きなアイデアを出してくれるようになるだろう。

(注1) ポジティブな: 前向きな
(注2) モチベーション やる気
(注3) 個人的な一存 自分ひとりだけの考え
53. 自分の意見が採用されない人について、筆者はどのように述べているか。
54. モチベーションへの責任も持つとあるが、 どういうことか
(4)
ガラス張りの床のある部屋で、赤ちゃんに自由にハイハイや寝返りなどをさせる実験があります。床は一部が深く掘ってありますが、 その上をガラスで覆ってあるので安全です。赤ちゃんは最初は平気でガラス床の上をハイハイして通過します。 ところが、ハイハイの経験が積み重なってくるとガラス床の上には這って出なくなります。転んだり落ちたりした経験があるからです。

これは重要なことです。なぜなら、ヒヨコでは異なる結果が出るからです。 卵から孵ったばかりのヒヨコを同じ床に置くと、初めからガラス床の上に出て行きません。野生の世界では、ヒヨコは一度でもどこかに落ちたら助からない可能性が高い。 だから落ちないように、生まれたときから 「高いところは怖い」ことが脳回路にインストールされているのです。

一方、ヒトの場合は生まれてから自分で移動できるようになることで、経験を通じて、つまり痛い思いを通じて、「高さ」に恐怖を感じるようになります。(中略)

見方を変えると、ヒヨコは本能で決まってしまっている範囲内でしか生きられません。 でも、ヒトは 後天的に (注2) 学ぶために高い柔軟性を備えています。 さらに一歩進めば、「怖いけれど、崖を下りてみ 「よう」などと判断することもできますから、 冒険の範囲が広がります。生まれた直後の判断能力は、動物たちのほうが高いかもしれませんが、 ヒトの 「初期能力の低さ」は、のちに「柔軟性の高さ」 へと化ける、いわば先行投資。 そのリターン (注3)は絶大で、十分に元がとれます (注4)。

(注1) 寝返り: 寝ているときに体の向きを変えること
(注2) 後天的にここでは、生まれたあとで
(注3) リターン: ここでは、得られるもの
(注4) 元がとれる: ここでは、利益が得られる
55. 初めからガラス床の上に出て行きませんとあるが、 なぜか。
56. ヒトの能力について、筆者はどのように述べているか。
問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして、最もよいものを、1. 2. · 3. · 4 から一つ選びなさい。
以下は、ある日本の美術館の館長が書いた文章である。美術館は芸術作品を楽しむ場所だ。 しかし、 予備知識なしに無心で楽しめるエンターテインメントと違って、アートを楽しむには特別な知識がいると①思っている人は多い。 私はそうした考え方は大きな誤解だと思っている。

しかし、そう考える人の気持ちがわからないではない。なぜなら、 この国では子どもの頃からアートに親しむ環境が整っていないからだ。 美術館では子どもはうるさくて邪魔な存在だとされている。美術館に来る資格があるのは分別のある大人だけだそう思われたら、敷居が高く (注1) なるのは仕方がない。 しかし、その逆に、子どもの頃から美術館に何度も足を運び、なじみのある場所になっていれば、 芸術作品との距離はもっと近づくだろう。

では、子どもたちに美術館を楽しんでもらうことはどうすればいいのだろうか。(中略)

私がよくやるのは②「宝探し」だ。 もともとはシカゴ美術館にいたときに同僚が実践しているのを見て面白いと思い、 日本の美術館に来てからも実践している。

「宝探し」のルールは簡単だ。

子どもたちに美術館で販売されているポストカードを渡して、展示されているその作品を探すように言う。 すると、彼らは絵を一生懸命見て、 ポストカード (注2) に印刷されている絵を探す。

作品を見つけ出したら、そのポストカードに感想を書いてもらう。どんなことを書いてもいい。 感想が思い浮かばなければ、 その絵の中に何が描かれているかということでいい。「見た」ものを書いてもらうだけでいいのだ。 とにかく、作品は「見る」きっかけを作ることが目的である。

大人はともすれば絵を頭で理解しようとする。 この絵は印象派 (注3)の巨匠(注4)○○が描いた絵だからすばらしい、というように、知識と実物を一致させるだけで満足してしまう。 しかし、そんな見方が果たして本当に作品を 「見た」 と言えるだろうか。

子どもたちは予備知識を持たずに絵を見る。そのときに 「感動」しなくてもかまわない。 一生懸命に「見る」だけでいいのだ。一枚の絵を一生懸命に見たという体験だけで、美術館に来た価値は十分にある。

美術館のすばらしいところは「本物」をその目で見られることだ。子どもたちは手にしたポストカードと作品を見比べて 「色が違う」 と気づくかもしれない。それだけでも立派な 「発見」 だ。 本物と印刷物は違うのだということがわかるだけでも、実物を見た甲斐がある。

私は、教育とは、自分の感性で感じ、 自分の頭で考えられるよう、感性と知性を鍛えることだと思っている。 問いに対する答えを教えるのだけが教育ではないはずだ。 そして、 美術館は、うまく使えば、感性を鍛えるすばらしい学校になりうる場所だ。 なぜなら、 美術館は 「答えがたくさんある」ことを教えるのに最適な場だからだ。

一人ひとり見る「目」 も違えば、 その作品を感じる 「心」も、そこから考える 「頭」も違う。 答えは決して一つではないのだ。

(注1) 敷居が高い: 近づきにくい
(注2) ポストカード: ここでは、芸術作品が印刷されたはがき
(注3)印象派: ここでは、絵画の流派の一つ
(注4) 巨匠OO: ○○という名前の巨匠
57. ①思っている人は多いとあるが、そういう人たちの気持ちについて筆者はどのように考えているか。
58. 筆者が、子どもたちに②「宝探し」をさせるのは何のためか。
59. 筆者によると、 美術館は子どもたちの教育にどのように役立つか。
問題11. 次の A と B の意見文を読んで、後の問いに対する答えとして、最もよい ものを、 1. · 2. · 3 · 4 から 一つ選びなさい。
A
人は不安を感じたり緊張したりすると、慌てたり身体の動きがぎこちなくなったりして、 本来の力が発揮できなくなることがある。そういうときは、「うまくいかなかったらどうしよう」 といったマイナスの思考をしないようにする必要がある。 そのためには、自分自身に肯定的な言葉を発することが効果的だ。 「きっとうまくいく」と言い聞かせたり、「こうなりたい」という具体的なイメージを言葉にしたりする。脳は自分が発した言葉を真実だと認識しようとするので、その言葉どおりになると思えてきて不安な気持ちが和らいでいく。つまり、心の状態はコントロールが可能なのだ。心の状態が好転すれば、 身体もスムーズに動き本来の力が発揮できるはずだ。

B
人は不安な状態に陥ると、 反射的に下を向いてしまいます。 このように、人間の身体というものは、心の微妙な動きに反応しているのです。こうした身体と心の関係性をうまく活用すると、身体の動きを操作することで心の動きまでもコントロールすることができるようになります。

たとえば、不安でしょうがない状態になったときは意識的に目線をあげてみる。 極度に緊張して呼吸が早くなったとしたら、 息を大きく吸い込んで深呼吸をしてみる。

シンプルにいうならば、今の身体の状態に対して、すべて反対の方向に身体を動かせばよいのです。目線をあげれば不安は解消されますし、深呼吸をすれば落ち着いた状態になります。

そもそも、心の状態というものは、自律神経(注)を通して身体の反応へと現れてくるものなのですが、こうした作用を逆転させてやることで、 身体の動きから自律神経に対して、逆のアプローチをかけていくことができるのです。

(注)自律神経: 意志とは無関佳系に、身体の機能を自動的に調節する神経
60. 不安を感じたり緊張したりしたとき、AとBはどうすればよいと述べているか。
61. AとBで共通して述べられていることは何か。
問題12. 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして、最もよいものを、1. 2. • 3. • 4 から一つ選びなさい。
以下は、コンピューターによる将棋が出現したことに対して書かれた文章である。

人間同士の将棋、 勝負というのは、 ただ盤 (注1) 上で能力を発揮し合うだけのものではありません。必ずそこに至るまでのプロセスがあります。強い相手と戦うことになってプレッシャーを受けたり、 「ああ、 「厳しい相手だなあ」 と萎縮してしまって勉強の意欲が減ったりすることだってあります。 でも、 「それじゃ「ダメだ」と自分の心と戦ったり、整理をつけたりして最終的に対局 (注2) 当日を迎える。 もちろん盤上の 戦いもすごく大変なのですが、必ず事前にそういうステップを踏んでいます。

人間の強さというのは、他人との戦いはもちろんですが、 自分自身との戦いによっても生まれ、育っていくものなのです。

それに、人間は疲れも感じるし、 集中力も永遠には続きません。 判断ミスだって何度もします。

しかし、そんなちっぽけな一人の人間が焦りや苦しさを乗り越えて、観ている側が感動したり、あっと驚くような勝負をしたりする。 それこそが人間の将棋の醍醐味だと思うのです。(中略)

よく言われることですが、 コンピューターに悩みやプレッシャーはありません。いくらコンピューターが強くても、先ほど述べたような人間的なプロセスを乗り越えてきているわけではない。

強いコンピューターというのは、開発者のプログラミング (注3)能力、また人間的な意味で言えば閃きに懸ける情熱とか、そういうものが評価されていきます。ただそれは、人間の将棋の強さとは別の軸に あるものだと思うのです。

その相容れない (注4) まったく別物の強さを競わせたのが、棋士 (注5) 対コンピューター戦です。その結果、コンピューターのほうが強かったとしても、人間の強さが魅力や意味を失うわけではないでしょう。

もちろん、棋士がコンピューターに負けたら、ファンの方がガッカリする気持ちもわかります。 いままで人間同士の素晴らしい戦いを観てきて、 最強棋士のすごさを体感してきた。そういう中でソフトという新しい存在が出てきてそれに負かされたら、人間は感情の生き物である以上、落胆するのも当然だと思うのです。

いままで自分が興奮や感動してきたものは何だったのだ、と。

ただ実は、人間とコンピューターの強さというのは粋にかけるものではなくて、 それぞれが固有の良さを持っているものだと思うのです。

人間対人間 人間対コンピューター、コンピューター対コンピューター。 大きく分ければこの三つになると思いますが、これらはそれぞれに独立した魅力があって、お互いを阻害するものではありません。そこを分けて考えることが大事なのではないでしょうか。

この三つのコンテンツ(注6)を徹底的に味わいつくしたうえで、コンピューター対コンピューターの対戦が一番面白いと思えば、人間の強さに魅力を感じなくなっても仕方がないとは思います。でもきちんと比較もせずに、なんとなく時代の流れやちょっとしたインパクトだけで、人間対人間の面白さの魅力が 薄らいだと思うのはすごくもったいない。

(注1)盤: ここでは、 将棋をする台
(注2)対局: ここでは、勝負
(注3)プログラミング: コンピューターのプログラムを作ること
(注4)相容れない: ここでは、性質が異なる
(注5)棋士 職業として将棋をする人
(注6)コンテンツ: ここでは、 対戦の内容
62. 人間同士の将棋の魅力について、筆者はどのように考えているか。
64. 筆者の考えに合うのはどれか。
問題13 右のページは、ある市の「市民企画講座」の募集案内である。 下の問いに対する 答えとして最もよいものを、 1・2・3・4から一つ選びなさい。
65. 次の4つの団体は、 玉北市在住者による団体で、 今後、以下の講座の開講を検討している。この中で「市民企画講座」に応募できるのはどの団体か。

団体名・実施内容実施期間・回数開講場所受講対象者・定員
大空グループ
「絵画教室」
4月と5月に計5回玉北市内の公園玉北市在住者
15~20人
もみじの会
「俳句教室」
7月~9月に計6回学習センター内の教室60歳以上の玉北市在住者
20~30人
たまきた文化の家
「茶道体験」
8月に計4回学習センター内の和室玉北市在住の親子
10~20人
玉北市歴史クラブ
「玉北市の歴史」
9月に計4回学習センター内の教室玉北市在住の親子
15~30人
66. 田村さんはある団体の代表者を務めており、今回初めて「市民企画講座」に応募したい と考えている。外部の講師を探しているが、講師について留意しなければならないことは何か。
玉北市市民学習センター
「市民企画講座」募集


A. 「市民企画講座」 とは
市内で活動する団体の皆さんに、講座を企画・運営してもらうものです。 市民学習センターは、広報、受講者の募集、 会場の提供を行います。

B. 応募条件
【申し込める団体】
・玉北市在住者による団体

【実施できる講座】
<内容・場所・講師>
・文化や芸術、歴史等に関する内容で、 当センター内の教室 (和室含む) で開講できるもの
・団体のメンバーが講師をすることも、外部の講師を招くことも可能
※外部の講師は玉北市在住でない方でも可能

<実施期間・回数>
4月1日~9月30日の間で、 計 4~6回の実施

<定員・受講対象者>
・定員 10~30人
・受講対象者は玉北市在住者とし、 年齢による限定をしないこと
※夏休み期間中(7月25日~8月31日) の講座のみ、 「子供」 または「親子」 を対象にしてもかまいません。


C. スケジュール
事前説明会: 1月13日 (土) 14時~16時 市民学習センター2階会議室
・応募や企画・運営の注意点等をご説明します。 初めて応募する団体の代表者は、必ず出席してください。 事前申し込みは不要です。

応募書類提出 受付期間:1月15日 (月)~1月31日(水)
・応募書類(「申請書」 と 「講座概要」) を、当センターの開館時間内 (平日 9時~19時)に窓口に持参してください。 記載内容を確認するので、代表者が提出してください。
・「講座概要」 は、講師が作成してください。

選考会 (面接):2月24日 (土) 午後
・代表者が必ず出席してください。 代表者と講師が異なる場合は、 講師も一緒に出席してください。
・結果は3月上旬に郵送します。

【問い合わせ】
玉北市市民学習センター
電話 242-000-8688
〒665-2243 玉北市浅田町 2-5

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